旧統一教会(世界平和統一家庭連合)と日本のキリスト教会についての意見書【8】のつづきです。
■拉致・誘拐・監禁ビジネスを行うキリスト教会?
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。
私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。
あなたはいのちを選びなさい。
(申命記30章19節)

(その結果は各々が背負うが、どちらを選ぶかは自分で決めるのだ。(モーセ))
これはモーセが約束の地カナンを目の前にして、
イスラエルの民に語った言葉である。
創造主なる目に見えない神を信じ従う道と、
地元のカナンの人々が信じている目に見える偶像の神々と、
どちらを信じ従うかを、
自分で決めなさい。
自分で選び取りなさい、
と、
決断を迫っている箇所である。

(神さまは強要なさらない。個々に選ばせる。神は人に自由を与えられたから)
聖書を見ると、
神さまにお従いする、
イエスさまを信じる、
という行為は、
もちろん神さまの側からの選びでもあるのですが、
私たちの側も、
それを選び取る、
という決断が求められる。
モーセは決して、
信仰の自由を無理強いをしなかった。
それは聖書の始め、
天地創造の場面でもそうである。
神は、
アダムとエバに、
すべての木の実を取って食べて良い。
だが、しかし、
善悪を知る木の実だけは食べてはならない、
と仰った。

(どれでも食べて良い。でも善悪の木の実は食べるな。(個々に選ばせる主))
しかし、
サタンにそそのかされたエバが、
それを取って食べてしまった。
それで、アダムも
「エバが食べたのなら、自分も死のう」と、
それを取って食べ、
人間に「罪」と「死」の呪いが入った。

その結果が、
私たちが今日もつ、
「罪」という性質と、
老化して病気になって「死」に至る。
という、
実態を発生させたのだ。
ある読者は思うだろう。
神はなぜ善悪を知る木などを、
エデンの園に置かれたのか?
初めからそのような厄介な代物は、
おかなければ良かったのではないか? と。
しかし聖書をよく見てみると、
神の愛と招きは全ての人に向けられているのだが、
が、
しかし、
人は、
それを選び取る、
という行為を、
求められているのだ。

(信仰は、強要されるものではない。自分で選び決断するもの)
⇒統一教会(世界平和統一家庭連合)と日本のキリスト教会についての意見書【10】
※この記事は、つきしろキリスト教会 blogの
『旧・統一教会(世界平和家庭連合)と日本のキリスト教会についての意見書』
より、転載したものです。
(行間等修正しています。)
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